中院

中院の歴史は古く、平安時代の初めにまでにさかのぼります。ただし、中院という名称はありませんでした。
天長七年(八三〇年)慈覚大師じ かくだいし円仁えんにんにより無量寿寺むりょうじゅじとして創立されました。今の中院や北院(喜多院)・南院の原型がつくられるのは、鎌倉時代に入りお寺が荒廃した後、再興されてからでした。無量寿寺の再興は、永仁二年(一二九四年)伏見天皇の発願で尊海僧正により仏地院が建立されたのが最初でした。仏地院が後の中院です。まもなく仏蔵院や多聞院が建立されました。仏蔵院が後の北院(江戸時代に喜多院と名称をかえました)、多聞院は後の南院です。なお当初の中院は現在の仙波東照宮がある地にありました。とにかく無量寿寺の中に北院・中院・南院が並立して存在しました。しかし江戸時代、北院に天海僧正の出現により、大きく規模を拡大し、現在でも大勢の人が訪れるのに対し、中院の方は、どちらかというと小じんまりとした印象を与えています。南院にいたってはわずかに墓石を残すのみです。
三月の下旬に中院に訪れました。ちょうどしだれ桜をはじめさまざまな種類の桜が、いっせいに咲きそろっていました。中院の前を通りかかると、他のどこよりも早く桜の花を見ることができたことを思い出しました。聞くところにしだれ桜は樹齢四百年にわたるということです。
狭山茶の起源
境内の「狭山茶発祥の地」の石碑によれば、日本に最初にお茶をもたらしたのは、唐(古代中国の国名)に渡り、天台宗の開祖となった最澄さいちょうで、川越地方にお茶が伝わるまで、すでに比叡山延暦寺では広くお茶が栽培されていたようです。川越地方にお茶の実をもたらしたのは、最澄の弟子で、無量寿寺を創設した円仁でした。最初は薬用として栽培されたようで、名前も河越茶とよばれたようです。
藤村義母の墓
広い墓地の中に表示がないと気づかない所に、文豪島崎藤村の二番目の奥さんのお母さんの墓があります。加藤家の墓と並んで、連月不染れんげつふせん之墓という墓石がありますが、それが藤村の義理の母の墓になります。藤村の義理の母戸いう人は、加藤みきという人で、川越地方の出身で、昭和十年七十三才でなくなりました。生前藤村とはとても仲良くしていて、亡くなった時もその戒名「連月不染」も藤村が書いたそうです。
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