新河岸川その二

前回に引き続き新河岸川をとりあげます。今回は、新河岸川沿いをさらに二、三十分下り扇河岸、少し先の下・上新河岸、牛子河岸を紹介します。残念ながら寺尾河岸の跡までは足をのばせませんでした。
さて紹介するといっても私には、新しい見聞をもちあわせていませんので、前回参照した斎藤貞夫氏の「川越舟運」から下新河岸の船着き場跡に隣接する日枝神社境内に残る観音堂と馬頭尊とにまつわる逸話等についての記述について引用させていただきます。
──帰命頂来きみようちようらい新河岸の
観音さまは誰が建てた
木ノ目きのめの長者がお建てやる
何の為とてお建てやる
その児の為にお建てやる
こんな御詠歌が、筆者の住む新河岸観音堂付近の古老たちの間に伝わっている。
 さて、右にあげた御詠歌ごえいかの一節、木ノ目(現・川越市)の長者なる者が、いつこの新河岸の地に観音堂を勧請かんじょうしたかは不明であるが、『入間郡誌』(安部立郎編)によれば、木ノ目長者といわれた大河内某が、娘の病気平癒を祈願して建立したのがその始まりだと記されている。
 現在ある観音堂は、明治三年四月二十二日下新河岸の大火以後に再建されたものである。
この御堂へは河岸場から約二~三〇〇メートルで行ける高台にあり、境内入口には木ノ目村の大河内某の分家だという杉山氏が、寛政かんせい元年に先祖の菩提ぼだいを弔って造立した石地蔵、なかほどには文化二年(一八〇五)七月に望月薯兵衛(下新河岸船積問屋「綿善」のこと)が奉納した手洗い石があり、その表側に三ツ鱗紋と卍印が彫られている。、これでもわかる通り、この観音は霊験あらたかな仏として、近村の人たちに崇敬され、縁日などはとくに参詣者で賑わった。
さてその一つに、いまではすっかり趣をうしなってしまった馬頭観音の祭り、地元では「馬まち」と呼んでいる縁日がある。いま観音堂前にある「馬頭尊」と書かれた石塔の裏面には、「明治八年乙亥吉日再建」とあるり、台座には、願主川岸馬連中 当所世話人五名を記したのが見られる。さらにその周囲には寺尾村三名、砂村二名、牛子村二名、南田島村二名、藤間村二名、木ノ目村二名、大仲居村一名の計一四人の氏名が記されている。
 この頃は、もっとも盛大にこの祭りが執り行われていたことであろう。この縁日は毎年二月十五日に行われる昼まちである。前にも述べたように、この土地は舟運が盛んであった当時、船積問屋・商家が軒を並べ、日夜発着の船がたえなかった。さらに、その物資を運搬する車馬の出入も多く、川越はもとより、大井おおい、福岡、三芳みよし福原ふくはら所沢ところざわ青梅おうめあたりから荷馬車がやってきた。そんなことで舟運に関係する運送馬、付並の農家の農耕馬などが、この日は新河岸の観音さまに馬士(馬と人の意味)ともども参詣して一年間の無事健康を祈願したのである。 馬には思い思いの盛装をこらし、飾り馬鈴をつけて観音堂と馬頭尊のたつ周囲を、何回となく晴れやかに乗り廻すのだ。いななきの声勇ましく廻り終ると、観音堂の世話人から紙に包んだ御供物として大豆をもらい、それを馬が食べれば一年間無病息災間違いなしという。古老の話によれば、この日はまた、一年間のうちに当地区に嫁入りした婦人が、婚礼のとき着用した衣装を着て観音さまにお参りすることになっていたそうだ。
 筆者の子供の頃(終戦前後)にはこの〝馬まち″は下火になっていたが、それでも馬に乗って参詣する馬方の勇姿を記憶している。当日の小学校の授業はもちろん半日。どこの家でも赤飯をつくり来客にご馴走をふるまって歓待した。この日は境内から沿道にかけて露店が並び、以前には見世物まで出たという。筆者の家から観音さままではほんの数分のところなので、午前中から露店の数が何軒でたとか母に知らせ、早くも心が踊ったものであった。──
上・下新河岸は元々寺尾村に属していたという訳で、対岸にある牛子河岸を含め、上流にある扇河岸及び下流にある寺尾河岸を合わせると旭橋を中心に川越五河岸が集中していたのです。旭橋の側の高台には日枝神社があり、日枝神社の境内に観音堂と馬頭尊という石塔があり、昭和の初め頃まで荷馬車や農耕馬に使われた馬の健康を祈願する祭りか行われたということです。
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