喜多院の歴史は、中院とまったく同じで天長7年(830年)慈覚大師円仁により無量寿寺としてはじまりました。鎌倉時代に入り兵乱により荒廃した後、再興されたのを機に、仏蔵院がつくられこれが現在の喜多院(最初は北院)につながっています。仏蔵院北院を喜多院と改めたのは慶長4年(1599)、天海僧正が住職になってからであり、その後徳川氏の庇護を受けて、大きく飛躍しました。しかし寛永15年(1638)の川越の大火によって、山門をのぞくすべての堂宇が焼失してしまいました。時の三代将軍徳川家光は、川越藩主堀田正盛に再建を命じました。その結果慈恵堂(本堂)、多宝塔、鐘楼門、東照宮、日枝神社など現存の建物が短い間再建されました。江戸城紅葉山の別殿を、客殿・書院にあてられたのもこの当時です 日枝神社 現在喜多院の山門の東側の県道に沿って日枝神社があります。天台宗開祖の伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開いたときに、地主神である大山咋神を鎮守として祀ったのに習い、無量寿寺創建の際に大山咋神が祀られました。なお、現在の赤坂日枝神社は、文明10年(1478)に太田道灌が江戸の地に城を築くに当たってここから江戸城内紅葉山に分祀したことにはじまります。また、本殿等の建物が川越の大火による焼失をまぬがれたかどうか不明であるようです。 仙波東照宮 元和2年(1616)駿府城で徳川家康が亡くなると一旦久能山に葬りましたが、翌3年(1617)日光山に移送する途中、遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要を営んだことにより、この地に東照宮が建てられました。なおこの地にかって中院があったということです。 山門 山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。喜多院の建造物で寛永15年(1639)の川越大火で唯一焼失をまぬがれたもので最古のものです。 多宝塔 多宝塔は、江戸時代の川越の大火後、喜多院の山門と日枝神社の間にあったと言われる古墳の上に建てられました。その後明治時代の県道新設のため、慈恵堂と庫裏玄関との間の渡り廊下の部分に移されたそうです。しかし上層部のない不完全な形だったようで現在の地に現在の姿に復元されたのは昭和50年1月のことです。 慈恵堂 慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源が祀られ、喜多院の中心的建物で潮音殿とも呼ばれ、ふつうは本堂もしくは大師堂として通っています。なお慈恵大師良源は、正月3日に入滅したことから、元三大師とも呼ばれています。正月3日の初大師に行われる「だるま市」は明治の中頃から始まりました。 鐘楼門 『星野山御建立記』という記録によると、寛永10年(1634)に建てたと記されています。その後再建の記録がないことから、山門と同じく寛永15年(1638)の川越の大火による焼失をまぬがれたと考えられます。 慈眼堂 小高く土盛りされた小山に建てられている。天海大僧正が入滅した後、徳川家光の命により影堂が建てられ、天海僧正の木像が安置されている。さらにこの堂の裏(西側)喜多院歴代の住職の墓があります。(創芸社『小江戸川越』参照) |