仙波浅間神社


仙波浅間神社は、前述の仙波愛宕神社が父塚と称されるのに対して母塚と称されバイパスを挟んで隣あったています。仙波浅間神社と他の浅間神社と区別されて呼ばれるものの今は住所は富士見町です。仙波浅間神社の説明は、ブログの中で引用させていただいたものをここでも引用させていただきます。
──浅間神社の歴史と信仰
当神社は康平こうへい年間(一〇五八~一〇六五)、源 頼義みなもとよりよしが奥州征伐の途次に分霊したことに始まり、長禄ちょうろく元年(一四五七)に太田道灌おおたどうかんが再営し、永禄えいろく九年(一五六六)に北条ほうじょう氏の臣、中山角四良左衛門が再興したという。
文政ぶんせい十一年(一八二八)川越南町の山田屋久兵衛が近郷富鹿岩室前の石猿に天保四年(一八三三)の銘があることや、石碑類の多くが天保年間に造営されていることから、天保年間に現在の形が整えられられたと考えられる。(この岩室は、大正十二年の関東大震災により崩壊し間もなく再建したとの柵石がある)拝殿の天井は、中央部が折上格天井おりあげごうてんじょうになっており、江野楳雪ばいせつ(一八一二~一八七三)による百人一首歌仙像の絵がくみこまれている。神社の祭神には木花咲耶姫命このはなさくやひめのみことが祀加えたられている。江戸中期、関東一円に浅間信仰が起こり、富士浅間神社を分霊した当神社には、近郷の多くの村々が講を作り、寄進したことが石碑や柵石に刻まれている。
毎年七月十三日の初山はつやまには、子育ての神が転じて子宝に恵まれる神としても信じられ、新婚夫婦・幼児を抱いたお母さん方など毎年一万人にも及ぶ参拝客が訪れている。参拝客は、暑さに向かう夏の健康を願いあんころ餅を、夏の難病と厄病を追い払い毎日を健やかに過ごすようにと団扇うちわを買い求め、お仲人や近親者に配る習わしになっている。