新河岸川その一


新河岸川沿いを歩いてみると、一年中こいとかかめ棲息せいそくは確かめられるし、冬季には、かも川鵜<かわう/rt>が訪れたりしますが生活水による汚染はひどく、しかも水量を少なくなっているのが見受けられます。その昔、新河岸川に江戸(東京)と川越地方とを船便があったとはとても想像できないのですが……。
──ここではたまたま我が家にあった「川越舟運かわごえしゅううん」という本から、今と昔の新河岸川の流れが大きく変わっていることを簡潔に説明している文を引用してみたいと思います。
新河岸川は荒川永系の一つで、現在狭山市内で入間川から分かれ、川越市の北部を迂回、荒川本流とほぼ並行して流れ、岩渕水門(東京都北区)の少し下流で隅田すみだ川に注いでいる。
舟運当時の流路は、川越市街の四キロほど東にある伊佐沼いさぬまより流れだし、川越城の近くに続いていたもう一つの流れと合流して、新河岸川となっていた。
荒川を外川と呼び、この新河岸川を内川といった。舟による交通が行われた頃はいまの和光わこう市下新倉付近で荒川に合流。現在の東京都板橋区や北区内の一部を流れる新河岸川とは全く別個であった。
川越藩主・松平信綱まつだいらのぶつなが川を改修、新河岸などの舟着き場を開設したのは正保しょうほ四年(一六四七)といわれる。
これから、かつて出船、入船で栄えた河岸場を、川越五河岸のおうぎ河岸を振り出しに、新倉河岸を経て、東京・隅田川の箱崎はこざき町に至るまで船問屋(船積問屋、回漕店とも呼ぶ)を中心に、途中一九の河岸場を訪ね、当時を知る古老やいま残る資料をもとに、移り変りを見ることにしよう。──
この本は、昭和五十七年初版の斎藤貞夫という方のよるもので著作に、主に江戸時代を通して繁栄していた川越地方の五つの河岸と明治に入って登場した仙波河岸の船問屋が栄えた昔の様子と、その面影を残す今の様子から解き明かし、舟運の様子をいろいろな角度で取り上げた著書です。上記の文と次の地図を見ると、舟運のさかんな時は、伊佐沼から発した新河岸川が今の和光市あたりで荒川と合流していたことや流れが今と違って蛇行だこうしていたことなどわかります。現在の新河岸川は、ほぼ荒川の流れと並行しながら東京方面にながれていますが、決して荒川とは合流しないで東京都板橋区船渡という所で隅田川につながります。ちなみに、伊佐沼からの流れは、昔からはるか下流で新河岸川と一緒になります。ちなみに下の地図がいつごろのものか著書には出ていませんでした。