喜多院そのニ


喜多院そのニ
喜多院に一回目訪れた時は少し早かったため、仙波東照宮は門をくぐり、石段を登りつめたところで鍵がかかっていて先にすすめませんでした。また拝観料が必要な、喜多院の庫裡・書院・客殿および五百羅漢の拝観受付も始まっていませんでした。朝の九時が受付開始ということがわかったので、それに合わせて再び訪れてみました。すでに夏の日差しは強かったのですが、やさしい木陰を快適に通り過ぎて、仙波東照宮の拝殿・幣殿と本殿をのんびり見学できました。石段を下りて、庫裡・客殿・書院の拝観にむかったのですが、その前に喜多院が七福神巡りの三番目の大黒天を祀られていました。書院と客殿と庫裡は、相互に渡り廊下でつながり、さらに本殿とも渡り廊下でつながっていました。庫裡が一般の人の入り口でそこで受付をすますと、靴を脱いだまま見学ができました。残念なのは室内はすべて撮影禁止だったことです。
客殿・書院・庫裡
寛永15年の川越の大火によって境内の堂塔はほとんど焼失し、再建を進める中で、江戸城の紅葉山にあった書院造りの御殿を移築したのが現在の客殿、書院、庫裡という建物です。客殿には、徳川家光誕生の間が、書院には春日局化粧の間があります。また書院に面する庭園は、小堀遠州流の庭園がもうけられており、「曲水の庭」と名付けられています。
五百羅漢
羅漢とは、阿羅漢の略称で、供養と尊敬を受けるに値する人の意味で、ふつう頭をまるめ、袈裟をまとった姿をしています。なるほど五百羅漢を訪れると、すべてがお坊さんの姿であることがわかります。川越の五百羅漢は、江戸時代中期の天明2年(1782年)に今の川越市北田島の志誠しじょうという人が制作に向かったのが始まりでした。志誠は本名を内田善右衛門といい、周囲のとめるのも聞かず、出家して羅漢の制作に邁進しました。この時代打ちこわしや百姓一揆が多発し、特に有名な天明の大飢饉が始まった年でもあることから、飢饉で亡くなった人々の供養を祈ることも制作におもむかせる動機があったかもしれません。しかし志誠は40体を完成した時点で病で亡くなりました。志誠の遺志をついだりは、喜多院の学僧でした。以後50年の歳月を費やし、浄財を諸方に求め、現在の540体の羅漢を完成させました、しかし天明2年にさきだつこと27年前に阿難陀尊者像があることから、志誠の試みより以前に五百羅漢に着手されたようですが、そのいきさつはよくわかっていない。
松平大和守家廟所
江戸時代の川越城の城主(お殿様)は、酒井家、堀田家(堀田正盛)、松平家(松平信綱)、柳沢家(柳沢吉保)、秋元家、松平大和守家とかわりました。なかでも松平大和守家は、七代、100年にわたり城主をつとめました。喜多院の本堂(慈恵堂)の背後に松平大和守家五代の城主のお墓をおさめたのがこの廟所です。
どろぼう橋
境内から市街地にぬける堀にかかった橋がどろぼう橋です。この橋のかたわらに名前の由来がかかげられています。その昔、ある盗賊が、喜多院の境内が町奉行の手が届かないを知って、この橋をわたって喜多院に逃げ込んたが、結局寺男につかまり。、元三大師に諭され、真人間になって、一生真面目に過ごしたということです。今でこそコンクリートでできていますが、丸木橋だった頃の話です。(創芸社『小江戸川越』参照)