先日鳥居をかいた浅間神社は、浅間神社古墳と呼ばれる古墳にまつられています。現在この古墳の前面には 向かって右が「神社」について、左が「古墳」についての掲示板が建てられています。
──浅間神社古墳について
円墳で、その規模は高さ約五メートル、周囲四二メートルである。現在この古墳の頂上には、浅間神社が祀られており、このためかなり削りとられて墳頂部は平坦になっている。古墳のすその部分に低いところが見られる事から周溝が巡っていたと考えられる。愛宕神社古墳と共に仙波古墳群の中では規模も大きく、群集墳が発生した初期の頃に築造されたものであり、六世紀の中頃のものであろう。仙波地域一帯が農業を専業とする人々によって村落が形づくられ、その指導者の墓として作られたものであり、川越市内では、的場古墳群、南大塚古墳群、下小坂古墳群に次いで残っている仙波古墳群のひとつである。(川越市教育委員会掲示より)
先日鳥居をかいた浅間神社は、浅間神社古墳と呼ばれる古墳にまつられています。現在この古墳の前面には 向かって右が「神社」について、左が「古墳」についての掲示板が建てられています。
──浅間神社古墳について
円墳で、その規模は高さ約五メートル、周囲四二メートルである。現在この古墳の頂上には、浅間神社が祀られており、このためかなり削りとられて墳頂部は平坦になっている。古墳のすその部分に低いところが見られる事から周溝が巡っていたと考えられる。愛宕神社古墳と共に仙波古墳群の中では規模も大きく、群集墳が発生した初期の頃に築造されたものであり、六世紀の中頃のものであろう。仙波地域一帯が農業を専業とする人々によって村落が形づくられ、その指導者の墓として作られたものであり、川越市内では、的場古墳群、南大塚古墳群、下小坂古墳群に次いで残っている仙波古墳群のひとつである。(川越市教育委員会掲示より)
──浅間神社の歴史と信仰
当神社は健康平年間(一〇五八~一〇六五)、源頼義が奥州征伐の途次に分霊したことに始まり、長禄元年(一四五七)に太田道灌が再営し、永禄九年(一五六六)に北条氏の臣、中山角四良左衛門が再興したという。文政十一年(一八二八)川越南町の山田屋久兵衛が近郷富士講中並びに有志老若男女の助力を受け、拝殿一棟の再建と一丈余の岩室の上に更に一丈有余を新築したと棟札に記されている。
岩室前の石猿に天保四年(一八三三)の銘があることや、石碑類の多くが天保年間に造営されていることから、天保年間に現在の形が整えられられたと考えられる。(この岩室は、大正十二年の関東大震災により崩壊し間もなく再建したとの柵石がある)
拝殿の天井は、中央部が折上格天井()になっており、江野楳雪(一八一二~一八七三)による百人一首歌仙像の絵がくみこまれている。神社の祭神には木花咲耶姫命が祀られている。江戸中期、関東一円に浅間信仰が起こり、富士浅間神社を分霊した当神社には、近郷の多くの村々が講を作り、寄進したことが石碑や柵石に刻まれている。
毎年七月十三日の初山には、子育ての神が転じて子宝に恵まれる神としても信じられ、新婚夫婦・幼児を抱いたお母さん方など毎年一万人にも及ぶ参拝客が訪れている。参拝客は、暑さに向かう夏の健康を願いあんころ餅を、夏の難病と厄病を追い払い毎日を健やかに過ごすようにと団扇を買い求め、お仲人や近親者に配る習わしになっている。
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