川越生まれで川越育ち、今もなお川越を離れたことが一度もない私としては、あまりうれしくないお話をこれから紹介します。それは、江戸時代の時代も後半に入り、歴代の将軍のなかで、とても長い将軍の座にあった徳川家斉(とくがわいえなり)が、やっと次男の家慶(いえよし)に将軍の座をゆずるも、冷涼な気候が続き、不況・飢饉が日本各地を疲弊させ、米が高騰したため都市を中心に打ちこわしが激しくなった時でした。さらに日本各地で、ロシアやアメリカなどの外国の船が日本の近海に姿を現しはじめたときでもありました。そのころ、松平斉典(まつだいらなりつね)というお殿様で、幕府により江戸湾警備を命じられ、財政的に困ったためでしょうか、たびたび領地に転封されることを幕府に願い出ていました。転封とは、大名が幕府によって治める領地をかえてもらうことです。その時の幕府は、水野忠邦による天保の改革がスタートした時で、斉典は、幕府に願い書をさしだすとともに、自分の要望を通すためでしょうか、将軍職をしりぞいても大御所として政界に影響を及ぼしている家斉の二十四男の斉省(なりさだ)を養子にとして迎え入れるなど働きかけをした結果、幕府により「転封」の命令が川越藩を含む三つの藩に下されました。その命令が「三方領知替え」でした。まず川越藩のお殿様だった松平氏は、山形の庄内藩へ転封されます。庄内藩のお殿様だった酒井氏は、新潟の長岡藩へ転封され、今までの長岡藩のお殿様だった牧野氏は、川越藩にやってくるわけです。転封とは、お殿様が自分の家族はもちろん、自分の家来も引き連れて引っ越しするのですから大変なことです。それなのに自分から転封を申し出るには、江戸湾警備の負担をはじめとする赤字財政赤字を解消しようという思いが大きかったのでしょう。まして、松平氏の転封先の庄内藩は、北前船の寄港地を控えて比較的裕福を約束された土地でした。しかし松平氏の熱い思いは、受け入れ側の庄内藩で転封反対一揆が起こり、やがて長岡藩でも反對の騒動が起こったそうです。川越藩の反応がどうだったのかわかりませんが、三方のうち二方に反対運動がおこり、大きな後ろ盾だった家斉ば死去したこともあって、「三方領知替え」は中止になったということです。
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