入管法(出入国管理及び難民認定法の略)は先ごろ終わった国会で改正されました。入管法は戦後まもなく交付され、何回か改正されたのですが、2021年廃案された内容が今回の改正に盛り込まれました。その内容というのは、難民認定の申請は二回まで、それ以降は、強制退去の対象となるというものです。難民認定の基準がどんなものか知りませんが、いかにも難民申請者に背を向けた冷たい法という感じがするのですが、いかがですか。こんな国の姿勢と対照的なできごとが江戸時代の末期にあったので紹介したいと思います。時は、嘉永七年(1854年)11月、すでに前年度ペリー艦隊が浦賀に訪れ、長い鎖国の状態から日本が開国に向かって進んでいるときのことです。どういう訳か、この頃大地震が相次いで発生し、そのうちの一つが今の神奈川県や伊豆地方を襲った大地震は、津波を被害をもたらすものでした。ちょうどロシア・ロマノフ王朝の使節として日本にやってきていたプチャーチン以下五百人が乗船する軍艦ティアナ号が下田湾に停泊中でした。津波は下田町一帯を襲い、下田町の民家はほぼ全滅し、ディアナ号の船底は大破してしまいました。プチャーチンはディアナ号を修理すべく、伊豆半島の西側の戸田(へだ)に向かわせましたが、一二月二日に沈没してしまいました。酷寒の海で溺死の危機に瀕したロシア人水兵五〇〇名を救ったのは、駿河湾北岸の村人たちでした。 以下わずらわしいですが引用させていたただきます。──ディアナ号のマホフ司祭はその手記の中で、「早朝から千人もの日本の男女が「浜辺に押しかけて来」、救助にたずさわったことを、「この目が信じられぬほどの出来事だった」とし、「何人かの日本人が目の前で上衣を脱ぎ、私たちの仲間のすっかり冷えこんで震えている水兵たちにあたえたのは驚くべきことであった」と記している。感激した司祭は、「善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ! この善男善女に永遠に幸あれ」と記すのであるが、民衆の世界においては、救いをもとめる者へは手をさしのべるという人間的な連帯の感情が息づいており、かれらにとっては、遭難船や漂流民の救助すら否定する鎖国が有害無益な制度であったことを、この事件はよくしめしている。──なおディアナ号の修理は断念したらしく、幕府は新たに戸田港の南岸に造船所をつくり、そこでロシア人の技術者の指揮の下、周辺の土地から船大工や人夫が集められ西洋型帆船を建造することを許しました(翌年春完成)。今度の入管法の改正で日本人の外国の人に対する意識が一世紀以上の昔の人に比べて進んでいないということを思わずにはいられません。
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