今回のブログは、3回目の海外旅行のシリーズは杉原千畝の足跡をたずねてリトアニア訪問の様子をスライドショーにしてみました。
杉原千畝
なぜ一人旅にチェレンジしたか。それは、リトアニアに出かけるため。命のビザで有名な杉原千畝の足跡をたどりたいと考えたからです。イタリア旅行は、その予行練習だったのです。それではリトアニア旅行記の始まりです。
大雪原
2004年6月10日。30年勤務の「ご褒美」の休暇を使って、リトアニアに向かって出発しました。搭乗機はスカンジナビア航空。全くのウイークデーでも機内は満席。夏というのに、眼下にはシベリアの大雪原が広がっていました。
高緯度
リトアニアには直行便がありません。第一日目はデンマークのコペンハーゲンで一泊。西に向かうので、いつまでも昼間です。おまけに6月の高緯度の北半球。夜8時というのに空は青空。長い一日になりました。
リトアニア到着
コペンハーゲン空港からリトアニアに入りました。言葉など全く分かりませんが、これまでの旅行感を発揮して、昼前に無事到着。ヴィリニュスの空港ビルは一時代前の造りです。現地旅行社に予約しておいた日本語ガイドさんとも会え、ホテルにチェックイン。さっそく市内観光に出かけました。
ジャガイモ料理
まずは腹ごしらえ。学生たちが集まる大衆的なレストランに入りました。料理の基本はジャガイモです。もっちりと煮込んだジャガイモやスープ。大満足のランチになりました。(写真の左側は別途入手したものです)
ヴィリニュスの街角
続いてリトアニアの首都ヴィリニュスの街を観光しました。街角の様子をご紹介します。
記念碑
ヴィリニュスの街をしばらく歩いていくと、大きな川に出ました。その川べりに記念碑を発見。いよいよ旅の目的の一つに出会うことができました。杉原千畝の記念碑です。
命のビザ
記念碑には、杉原千畝の業績を表す書類が彫り込まれていました。命のビザです。1940年7月から8月、リトアニア在住のユダヤ人にもナチスドイツの魔の手が襲い掛かっていました。そこから逃れるためには、日本を通過するビザが必要です。杉原千畝は、日本政府の訓令を無視して、ユダヤ人にビザを発行し続けたのです。
知事選と「ヴィリニュスの街並み」
千畝の記念碑からは、中世の面影が残るヴィリニュスの街並みを見ることができます。見晴らしの良いこの地に記念碑があることに、リトアニアの人びとの千畝に対する思いを見て取ることができました。(中央の女性は現地の日本語ガイド。右端の自動車で移動した。)
「勘」
ヴィリニュスに一泊し、ホテルで夕食。「勘」を頼りの注文です。メニューの順番は、ほぼ共通。何とか夕食を済ませることができました。
希望の門
翌日は、もう一つの目的地に向かいました。千畝が勤務した領事館です。カウナスという町に残る領事館跡。静かな住宅地の中にたたずんでいます。門柱には、「希望の門 命のビザ」と刻まれていました。
執務室
執務室に入りました。杉原千畝領事が、日本通過ビザを発行し続けた場所です。机も椅子もペンも、当時のまま残されていました。
鉄柵
千畝は、運命の日の光景を手記に綴っています。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった。…6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」写真は、当時の様子と執務室から撮影した領事館の門です。
収容所
杉原千畝はビザを書き続けましたが、それでもリトアニアを脱出できなかったユダヤ人が数多くいました。そして容所行きに…。リトアニアには収容所がいくつかあり、今は、当時を語る継ぐ博物館に生まれ変わっています。その一つを訪ねてみました。
監視
センポ スギハラ
収容室(監獄)は展示室に変わっていました。鉄格子が当時をしのばせます。左のポスターは「センポ・スギハラ展」をしらせるもの。センポ・スギハラとは、杉原千畝のこと。彼は、センポと呼ばれていたそうです。チウネの発音は現地の人には難しく、音読みをしたのでしょう。
トラカイ城
。リトアニア訪問の目的は果たしました。せっかくですので、リトアニアの名所や街の様子を紹介しましょう。まずは、世界遺産のトラカイ城です。14世紀に建てられました。
大聖堂
続いて、ヴィリニュスの大聖堂。ちょうど結婚式が挙行されていました。
カーブ
ヴィリニュスの街を散歩すると、カーブした路地にたびたび出くわします。川越の鍵型に折れた道と同じ役割のようです。
座ってレジ
海外のスーパーマーケットに行くと、レジの店員が座って対応していることに目が留まります。店員もフレンドリーです。リトアニアも同じです。これが世界標準なのでしょう。
機内食
「ご褒美」の休暇も終わりに近づきました。帰国便の機内食を紹介しましょう。離陸して1時間ほど過ぎると夕食(左)。ワイン付きです。ほどなくすると照明が消え、機内は夜に。7時間ほどすると再び照明がつき、機内は朝です。朝食(右)になります。11時間ほどのフライトで、エコノミーでも、やはり食事は大きな楽しみです。
新潟上空
朝食が終わるとすでに日本の領空。スカンジナビア航空は、座席のパーソナルモニターに眼下の様子が映し出されます。機内誌の地図とモニターを見比べ今の地点を探ると、どうやら新潟上空のようです。流れは阿賀野川だと思います。
次の旅へ
朝、無事に成田空港に着陸。帰国です。3泊5日のリトアニア一人旅が終わりました。この旅の
成功で、私の“一人旅熱”は過熱する一方です。年末にはタイのプーケットに出かけました。次回からはプーケット旅行を紹介しましょう。
杉原千畝
なぜ一人旅にチェレンジしたか。それは、リトアニアに出かけるため。命のビザで有名な杉原千畝の足跡をたどりたいと考えたからです。イタリア旅行は、その予行練習だったのです。それではリトアニア旅行記の始まりです。
大雪原
2004年6月10日。30年勤務の「ご褒美」の休暇を使って、リトアニアに向かって出発しました。搭乗機はスカンジナビア航空。全くのウイークデーでも機内は満席。夏というのに、眼下にはシベリアの大雪原が広がっていました。
高緯度
リトアニアには直行便がありません。第一日目はデンマークのコペンハーゲンで一泊。西に向かうので、いつまでも昼間です。おまけに6月の高緯度の北半球。夜8時というのに空は青空。長い一日になりました。
リトアニア到着
コペンハーゲン空港からリトアニアに入りました。言葉など全く分かりませんが、これまでの旅行感を発揮して、昼前に無事到着。ヴィリニュスの空港ビルは一時代前の造りです。現地旅行社に予約しておいた日本語ガイドさんとも会え、ホテルにチェックイン。さっそく市内観光に出かけました。
ジャガイモ料理
まずは腹ごしらえ。学生たちが集まる大衆的なレストランに入りました。料理の基本はジャガイモです。もっちりと煮込んだジャガイモやスープ。大満足のランチになりました。(写真の左側は別途入手したものです)
ヴィリニュスの街角
続いてリトアニアの首都ヴィリニュスの街を観光しました。街角の様子をご紹介します。
記念碑
ヴィリニュスの街をしばらく歩いていくと、大きな川に出ました。その川べりに記念碑を発見。いよいよ旅の目的の一つに出会うことができました。杉原千畝の記念碑です。
命のビザ
記念碑には、杉原千畝の業績を表す書類が彫り込まれていました。命のビザです。1940年7月から8月、リトアニア在住のユダヤ人にもナチスドイツの魔の手が襲い掛かっていました。そこから逃れるためには、日本を通過するビザが必要です。杉原千畝は、日本政府の訓令を無視して、ユダヤ人にビザを発行し続けたのです。
知事選と「ヴィリニュスの街並み」
千畝の記念碑からは、中世の面影が残るヴィリニュスの街並みを見ることができます。見晴らしの良いこの地に記念碑があることに、リトアニアの人びとの千畝に対する思いを見て取ることができました。(中央の女性は現地の日本語ガイド。右端の自動車で移動した。)
「勘」
ヴィリニュスに一泊し、ホテルで夕食。「勘」を頼りの注文です。メニューの順番は、ほぼ共通。何とか夕食を済ませることができました。
希望の門
翌日は、もう一つの目的地に向かいました。千畝が勤務した領事館です。カウナスという町に残る領事館跡。静かな住宅地の中にたたずんでいます。門柱には、「希望の門 命のビザ」と刻まれていました。
執務室
執務室に入りました。杉原千畝領事が、日本通過ビザを発行し続けた場所です。机も椅子もペンも、当時のまま残されていました。
鉄柵
千畝は、運命の日の光景を手記に綴っています。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった。…6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」写真は、当時の様子と執務室から撮影した領事館の門です。
収容所
杉原千畝はビザを書き続けましたが、それでもリトアニアを脱出できなかったユダヤ人が数多くいました。そして容所行きに…。リトアニアには収容所がいくつかあり、今は、当時を語る継ぐ博物館に生まれ変わっています。その一つを訪ねてみました。
監視
センポ スギハラ
収容室(監獄)は展示室に変わっていました。鉄格子が当時をしのばせます。左のポスターは「センポ・スギハラ展」をしらせるもの。センポ・スギハラとは、杉原千畝のこと。彼は、センポと呼ばれていたそうです。チウネの発音は現地の人には難しく、音読みをしたのでしょう。
トラカイ城
。リトアニア訪問の目的は果たしました。せっかくですので、リトアニアの名所や街の様子を紹介しましょう。まずは、世界遺産のトラカイ城です。14世紀に建てられました。
大聖堂
続いて、ヴィリニュスの大聖堂。ちょうど結婚式が挙行されていました。
カーブ
ヴィリニュスの街を散歩すると、カーブした路地にたびたび出くわします。川越の鍵型に折れた道と同じ役割のようです。
座ってレジ
海外のスーパーマーケットに行くと、レジの店員が座って対応していることに目が留まります。店員もフレンドリーです。リトアニアも同じです。これが世界標準なのでしょう。
機内食
「ご褒美」の休暇も終わりに近づきました。帰国便の機内食を紹介しましょう。離陸して1時間ほど過ぎると夕食(左)。ワイン付きです。ほどなくすると照明が消え、機内は夜に。7時間ほどすると再び照明がつき、機内は朝です。朝食(右)になります。11時間ほどのフライトで、エコノミーでも、やはり食事は大きな楽しみです。
新潟上空
朝食が終わるとすでに日本の領空。スカンジナビア航空は、座席のパーソナルモニターに眼下の様子が映し出されます。機内誌の地図とモニターを見比べ今の地点を探ると、どうやら新潟上空のようです。流れは阿賀野川だと思います。
次の旅へ
朝、無事に成田空港に着陸。帰国です。3泊5日のリトアニア一人旅が終わりました。この旅の
成功で、私の“一人旅熱”は過熱する一方です。年末にはタイのプーケットに出かけました。次回からはプーケット旅行を紹介しましょう。
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