今回も孑度 哩さんの4回目の海外旅行をスライドショーにまとめたものをのせます。4回目の海外旅行の行く先はタイのプーケット。その目的はダイビングの講習を受け、ライセンスをとることでした。2004年12月のことですが、なんと日本を出発してまもなく、インドネシアのスマトラ島沖に大地震が発生、当地にも大津波が押し寄せて来たのです。
ダイビング
プーケット旅行の目的は、ダイビングのライセンス取得です。こんどは水中にチャレンジ。3日間で取得できるという情報をネットで得て、今回もすべて自前の個人旅行へ。12月下旬に仕事が終えたところで、冬の日本から常夏のプーケットに出発しました。時は2004年12月24日金曜日でした。(2004年12月27日撮影)
今から思うと
今回は、今から考えると旅立ちを引き留めるような出来事が重なりました。一つは同僚の入院です。出発当日に入院先を見舞いましたが、急な入院でした。二つ目は娘の体調です。出発間際にすぐれないことを聞いたので、後は家族に託しました。三つめは、電車の乗車口を間違えたことです。出発時刻が迫っているのにドアが開きません。降車ホームに立っていたのです。でもその時は、何も感じずに空港に向かいました。
関空発深夜便
まず品川経由で羽田空港に到着。続いて今回の出国地、関西空港に向かいました。フライトは日付が変わってすぐの深夜便。到着先は真夏のプーケットです。冬の服装から軽装に着替え、出発しました。
プーケット到着
タイ国際航空の機内でひと眠りすると、早朝のプーケットに到着。迎えの車は荷車のような自動車でした。数組の旅行者と混乗でパトンビーチにあるホテルに向かい、例によって日本語ガイドさんの力を借りてチェックイン。そして、ダイビング講習に向かいました。
ダイビング学科講習
ダイビング講習といっても、最初は学科です。テキストとビデオを見ながら、説明はどんどん続きます。夜行便の影響もあって理解はイマイチ。結局テストは不合格。明日までに、もう一度テキストを読み直す宿題をいただいてしまいました。
プーケット2日目
学科講習で宿題を課されて、ホテルに戻りました。明日はいよいよ実地講習。ダイビングの装備を身に着けて水に潜ります。夕食をとり早めに就寝。プーケット2日目は静かに暮れました。(写真は講習先のダイビングショップ付近)
静かな浜辺
プーケット2日目。朝食前に、学科講習の予習のためテキストに目を通していると、少し目まいを感じました。時刻は12月26日の8時。強行軍の疲れかと思い、予習は止め朝食に。その後、朝の浜辺の散歩に向かいました。まだ観光客もまばらで、静かな浜辺でした。
ダイビングウエア
静かな海岸からホテルに戻り、ダイビングスクールに向かいました。今日はプール講習です。スーツ、マスク、スノーケル、ブーツ、フィン、グローブ、BCジャケット、レギュレーター、オクトパス、ゲージ等々、初めてのダイビング装備をして郊外のプールに向かいました。
プール講習
いよいよ、生まれて初めての体験。しっかり装備を身に着け、プールの中に潜航しました。コミュニケーションは、ハンドサインと磁性黒板でとります。四苦八苦の講習でした。
異変
プール講習は無事終了。機材をはずして一休みです。でも、当たりが変です。ホテルの従業員でしょうか? 十数人ほとが、慌てて走っていきます。私たちは、樹木の消毒で避難しているのではないか、などと話していましたが、直前にとんでもない事が起きていました。
津波襲来
「とんでもない事」の正体は、帰りの車で街に入って分かりました。津波です。道路には様々なものが散乱し、大水の後のようです。 2004年12月26日、インドネシア西部時間7時58分53秒にスマトラ島北西沖のインド洋で発生した、マグニチュード9.1の地震。そして、それに起因して発生した大津波。タイのプーケットには、地震発生から2時間30分後に津波が到達しました。
不幸中の幸い
ダイビングショップに戻って事情を聞き、改めて事の重大さを認識しました。私たちはプール講習だったので幸運にも難を逃れましたが、ビーチで講習を受けていた人たちは罹災したそうです。明日からの講習は中止。ホテルへの送りも中止。私は、旅行斡旋業者にひとまずホテルに戻ること連絡し、ホテル目指して歩き始めました。(写真はダイビングショップの移動用の車)
バナナ購入
まずは昼食。しかし、すでにレストランは満席か閉店で、セブンイレブン(店の前も水が来た跡が残る)も閉まっていました。昼食どころではありません。しかたなく大通りを歩き始め、開いている店を探しました。ようやく八百屋をみつけ、身振り手振りでバナナを購入。そして、何とかホテル前まで戻ることができました。
惨状
やっとホテルにたどり着きましたが、目を疑う惨状が広がっていました。自動車が横たわる入口。1階のレストランは、机も椅子も散らばり放題で、ガラスがあちこちに散乱。フロントで部屋の鍵を入手して、まずは部屋に。エレベーターがストップしているので、階段をのぼることになりました。
鍵
階段を上り始めたら、血の跡をみつけました。津波でけがをしたのでしょう。廊下は停電で真っ暗です。部屋に入り、ようやく落ち着くことができました。あとで分かったのですが、利用したホテルの鍵は手動式なので開きましたが、電動式の場合は開錠不能です。パスポートや着替えを手にすることができない人も少なくありませんでした。(写真はホテルのレストランの惨状)
食事案内
ホテルの従業員から、身振り手振りで食事の案内を受けました。屋上に弁当の用意があるとのことです。当座は途中で購入したバナナと部屋のペットボトルの水で凌ぎましたが、夕食は利用することにし、屋上に向かいました。写真は照明が消えた廊下
タイ風幕の内弁当
屋上は人であふれていました。弁当は、いわゆるタイ風の幕の内弁当。いいえ、それだけではありません。ビール付きです。さすがに、ホテル提供の炊き出しは違います。まずは腹ごしらえ。空腹だったこともあり、なかなかの美味でした。
(おかずの中身は、イラストとは違います。これはイメージです。)
多言語
空腹は満たされましたが、屋上に留まることにしました。たくさんの人と一緒にいた方が安心だと思ったからです。でも辺りを見回すと、日本人は自分一人。英語以外の耳慣れない言語も聞こえてきます。すっかり日が暮れて、空には月が輝いていました。
懐中電灯
常夏の島とは言え少し冷えてきました。夜9時を回り、屋上に横たわる人もいますが、体力に自信がないので、部屋で休むことにしました。月明りを頼りにして部屋に到着。自宅から持ってきていた懐中電灯で辺りを照らして荷物を整理し、床に就きました。これ以上このホテルに留まることは難しいので、明日は、何としても、プーケットタウンに向かわなければなりません。
深夜の迎え
時刻は午前1時過ぎ。ドアをたたく大きな音で目が覚めました。ドアの向こうから、日本語の大きな声が聞こえます。「『A&A』の山口で
す!」。「A&A」とは、私が航空券やホテルの手配を依頼していた旅行会社です。飛び起きドア越しに用件を聞くと、プーケットタウンまで送るとのこと。すぐに依頼し、身支度を整えてホテルを出発しました。
逃避行
ホテル前で山口さんの車に乗り、深夜の「逃避行」となりました。山口さんは、途中2つほどのホテルに寄り、何人かのお客の意向も聞いて回りました。結局、同乗したのは私一人。被害の様子や郷里のことなどの世間話をしているうちに、プーケットタウンに到着。深夜3時前だったと思います。事務室のような部屋に通され、パイプ椅子を何台か広げてベッドにし、夜明けまでひと眠りすることにしました。(写真はイメージです)
プーケット日本人会
辺りが明るくなり目覚めました。事務室と思ったところは、「プーケット日本人会」の事務所でした。この会は、相互の親睦と福祉の増進に取り組むとともに、子どもたちへの教育活動も行っているそうです。壁には、子どもたちの作品も掲示されていました。
旅行社
この事務所は、2階建てのビルの2階にありました。1階に下りていくと、そこは日本人向けの旅行社のオフィースでした。私をここまで連
れてきてくれた旅行社です。事務所の前は大きな広場。その一角には大きなホテルがあり、朝食はそのホテルで済ませました。
日本大使館臨時相談所
日本大使館の職員が、ここで邦人対策に当たるとのこと。改めて自分が、外国にいること、日本国籍であること、そして非日常の中にいることを実感しました。
携帯電話
臨時相談所には、パスポートを流されたなどの相談がありました。夫婦で津波を受けたある女性は、ビーチウエアのまま訪れました。夫が茫然自失でホテルの部屋に閉じこもっていることを話しながら、「こういう時、男の人って駄目ですねえ」と嘆いていました。私は、まだ自宅に連絡していないことに気づき、大使館員の携帯電話を借りて、無事であることを伝えました。(写真はイメージです)
新しい予約
身の安全を守ることはできましたが、ホテルが機能停止でダイビング講習もなくなったので、明日の帰国までの宿と過ごし方を見つけなければなりません。幸いなことに、ここは日本人向けの旅行社。徒歩圏内に宿が見つかり、食事付きの島内観光と民族舞踊ショーの予約もできました。
講習仲間
被災後ですが、幌付きの軽トラックに乗り込み島内観光に出発です。海岸付近では何もかも流されてしまい、片付け作業が進んでいました。この直後、一緒にダイビング講習を受けていたご夫婦の姿をみつけました。私は思わず、大声で名前を叫んでしまいました。気づかなかったようですが、周囲の目を気にず車中から大声を出した自分に驚きました。講習仲間で異国での罹災者同士というの意識が、そうさせたのでしょうか。
泣き顔
島内観光の休憩場所でテレビを見ると、いたいけな少女の泣き顔が映っていました。添乗員に尋ねると、津波で家族と別れ別れになったとのこと。ご家族は今頃どうなっているのでしょう。少しタイミングがずれれば、私もビーチで練習していたかもしれません。とても他人事には思えませんでした。
海岸線
島内観光ですから景勝地にも寄ります。プーケットの海岸線を一望できる展望台からは、本当に静かで美しい海を臨むことができました。昨日の惨劇など、全く想像できない海でした。
民族舞踊
島内観光が終わり、プしてくれた現地の運転手は、堪能な日本語で、被災したプーケット観光の行く末を心配していました。夜は、夕食付きの民族舞踊鑑賞に出かけました。観客はさすがに少ないものでしたが、出演者たちは笑顔を絶やさず最後まで熱演。ピックアッ
帰国の朝
いよいよ帰国の朝を迎えました。帰りは、プーケットからバンコクで乗り継いで成田に向かいます。羽田から成田への周遊になったわけです。ピックアップ場所は、臨時大使館が開設された旅行社前。まだ薄暗い中、すでに若いカップルが待っていました。
暗い車内
いくつかのグループをピックアップしながら、プーケット国際空港に向かいました。中には、映画「ビーチ」の舞台ピピ島で津波の被害を受けたカップルもいました。ショックが消えないのでしょう。女性は暗い表情のままでした。帰国の途に就く車内は、普段なら旅行中の体験談で花が咲くものですが、会話をほとんど交わされないまま空港に着きました。(写真は津波にのまれたピピ島=「南国 Diving World」より)
トムヤンクン
いよいよ出国です。プーケット空港を飛び立つと、ほどなくバンコク国際空港に到着。ロビーは、津波の被害はなかったような賑わいです。乗り継ぎの間に土産物を購入。女性店員の誘いにのって、名物のトムヤンクンも味わいました。
取材
無事バンコク国際空港を離陸し、予定通りのフライトで成田空港に着陸。到着ロビーにはメディアのクルーが待ち受けていました。津波被災者の取材です。しかし私はスルーされ、クルーが集まったのは若いカップル。当然です。私はジャケット姿で、カップルはビーチウエア姿。きっと、ホテルが津波被害にあって、荷物が流されてしまったのでしょう。無事の帰国を祝したいと思います。
体験記録
予想もしなかった大地震で、ダイビングの資格取得という当初の目的を果たすことはできませんでしたが、生涯二度とできない貴重な体験ができました。今振り返ってみると、以前紹介した旅立ちを引き留めるかのような3つの出来事は、まさに「旅行に行くな」のサインだった言えます。帰国後、少し落ち着いたところで、津波被災体験をまとめてみました。
後日談
プーケット旅行の後日談を2つ。1つは、一緒にダイビ
ング講習を受けた宮崎夫妻から、グアム島で再度挑戦し資格を取得したとの連絡がありました。ご夫婦で楽しんでいる写真も添えてありました。もう1つは、私をホテルから救ってくれた山口さんがご逝去されたことです。お参りするために、被災5周年の年に再度プーケットを訪問。仏壇に手を合わせ、奥様にも、旅行社の通訳を通してお礼の挨拶もできました。今でも、お元気だった頃の姿が浮かびます。今回は貴重な一人旅になりました。次回から、新たな旅の紹介を始めます。
慰霊碑
プーケット旅行の後日談、2つめです。実は、5年後に再びプーケットを訪れました。目的は、津波の慰霊はもちろんですが、もう一つの慰霊があったのです。それは、津波の夜に私をプーケットタウンまで送ってくれた山口さんの慰霊です。現地の旅行社の方に案内していただいてご自宅を訪問。奥様へお悔やみの言葉を伝えていただき、お線香をあげてきました。続いて、現地日本人会の手によって建てられた慰霊碑の前で慰霊祭が行われ、そこにも参加しました。慰霊碑には、「永久の凪を願う」という言葉が刻まれていました。
美しい海
2回目のプーケットに賑わいが戻っていました。美しい海と砂浜が永久に続くことを願って帰国しました。(写真はイメージです)常夏のプーケットの次は、冬のパリ旅行です。
コメント